茶聖・陸羽は名編集者
2007年11月23日
中国茶評論家・工藤佳治
――コンパクトな書籍で、名は永遠に
「何字書いたの?」。この質問の意味を知る日本人は、あまり多くないかもしれない。本や論文を書いた時、中国の人たちがする質問である。意味するところは、何十万字も書いたことは、それだけで評価される。大作がよい、とする伝統である。
学術論文も同じだと聞く。その業績評価でまず聞かれるのは、内容よりも、今までの論文の累積字数である。
そんな中国文化の中にあって、書いた字数は少なくとも、聖人として、神として、現在でもお茶の世界で評価されている人物がいる。唐代に生きた「陸 羽」である。「茶聖」「茶神」などと呼ばれ、尊敬され続けている。彼が後代にまで高い評価を残す所以になっているのは、1冊の薄い本である。世界で最初の 茶の総合書『茶経』である。8世紀後半に書かれた本だ。
『茶経』を見たことがなくても、彼の業績・評価に、私たちの周囲で触れることができる。京都の有名茶舗・一保堂の包装紙は、漢文で書かれた書の一部がレイアウトされて印刷されている。その包装紙の漢文は、この『茶経』の有名な書き出し部分である。
香港で歴史もあり、店構えも雰囲気がある有名な茶館「陸羽茶室」は、『茶経』の著者・陸羽の名を冠している。台湾の茶藝のメッカでもある「陸羽茶藝中心」も、この陸羽の名が冠されている。
「茶は南方の嘉木なり」という書き出しで始まる『茶経』は、手元にある復刻本でページ数を数えてみても、56ページ。上中下の三巻で構成される。 その合計ページ数がこのページ数である。しかも文字がない白のページも3ページ含まれる。大著が評価される中国文化にあって、名著、しかも著者を聖人と評 価させるに至った書としては、意外な薄さである。
しかしこの薄い本は、じつは内容においては卓越し、充実した本である。
唐の時代、お茶はそれ以前の薬としての機能から、飲み物として一般的に普及された時代である。10章に分けられた章組みは、茶の生物学的起源に始 まり、製造の道具、製造の方法、茶器、いれ方、飲み方、歴史、生産地などで構成されている。当時までの茶に関する事柄を、集大成した本といえる。
これらの分野を、ある部分は文献学的に、ある部分は実際に調査したフィールドワーク風に、ある部分は分析的にといった手法を駆使し、まとめられている。そして、記述された内容においても、現在でも陳腐化していない、十分生きている内容になっている部分も多い。
「長くない」、そのことこそがこの本の卓越したところである。簡潔でありながら、その時代までの「茶」をあらゆる角度からアプローチしている。
彼がそのようにできた背景には、捨て子としてお寺で育てられ、教育された幼少期。そこを飛び出し、動乱の時代に翻弄されながら、旅回り劇団の座付き作家としての経験、今も書体にその名を残す顔真卿などの文人たちとの広い親交などがあったからと考えられる。
広い視野と旺盛な好奇心に支えられ、茶を見据えながら、それをコンパクトにかつ総合的にまとめ上げた名編集者であったからといえる。
それが、今の時代までも延々と彼を「茶聖」として評価させるに至った源であった。
「茶は南方の嘉木なり」。この冒頭の一文こそが、この本のすべてを象徴し、予感させ、また茶のすべてを言い尽すとも思える。以前には、さほど思わなかったが、茶が近くにある生活が長くなって、そのように感じられる。書き出し文としては名文である。
次回は、「中国紅茶は消えゆくのみか」(予定)です。
中国茶メモ
顧渚紫笋(こしょしじゅん・浙江省)
陸羽が晩年を過ごした「湖州」は、唐代三大貢茶(献上茶)の一つ「紫笋茶」が作られていたところとしても有名である。中国で最初の「貢茶院」(皇 帝の直轄茶園)が作られた。唐の都・長安(今の西安)で、清明節に開かれる皇帝の宴でこのお茶が供されるために、管理する役人は間に合うよう茶を摘み、製 茶をし、早馬を走らせたという。
現在は、産地である「顧渚山」の名前をつけて、銘茶となっている。
爽やかで、上品な甘さの残るお茶である。
沒有留言:
張貼留言