家康公が愛した味と文化〝再現〟「熟成本山茶壺」 |
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本山茶のブランド強化に取り組んでいるプロジェクトチームはこのほど、新戦略商品「熟成本山茶壺(つぼ)」を開発した。今春の発売を前に、15―17日に静岡市内で開かれる「しずおかコンテンツバレーフェスティバル2008」の会場で初披露する。 プロジェクトチームは静岡本山茶研究会、JA静岡市などで一昨年7月に設立した。県立大の岩崎邦彦准教授の指導で、本山茶が他産地を上回るブランド力を付けるための方策として、本山茶に関する歴史や文化などを取り入れた商品を開発することになった。 徳川家康が本山茶を壺に詰め、葵区井川大日峠の「御茶蔵」で保管、晩秋に駿府城まで運ばせ、その味を楽しんだという故事にちなんだ商品として、久能山東照宮の協力を受けて熟成本山茶壺を完成させた。 茶壺は直径、高さともに約10センチ。茶詰めの儀や道中行列で使われる壺の約4分の1程度と小型だが、地元の志戸呂焼の広前心斎氏が手掛けた本格仕上げ。中には藁科川、安倍川両流域の茶園で今春に摘む1番茶を、秋まで御茶蔵で貯蔵した熟成本山茶40グラムを収める。 茶壺を包む茶染めの風呂敷や化粧箱、漆塗りの茶器などもすべて地元工芸師による手作り。静岡本山茶研究会の森山幸男会長は「伝統工芸の粋を極めた茶壺セットに仕上がった。家康公が好んだ茶の味や歴史、文化を楽しんでほしい」と話す。 さらに、購入者に翌年産以降の本山茶をマイ茶壺に詰め、熟成させることができる特典なども検討している。 数量は限定100セットで、予定価格は3万5000円。4月1日から予約を受け付ける。問い合わせはJA静岡市藁科営農経済センター[電054(278)4939]へ。 茶壺。 と書いて、「チャフー」と読みます。 「ちゃつぼ」と読むと、「トッピンシャン♪」な感じになってしまいますので(笑)。 チャフーは中国語読みそのまま。 (中国語だと「チャーフー」と伸ばします。) たくさんの茶壺は眺め愉しむためのコレクションではなく、日々、使っている茶壺たち。 「南瓜」(かぼちゃ)の形は「青心大ぱん用」。 「蛋」の形のは「白鷺用」。 他に、紅茶用、岩茶用・・などなど種類分けをして日々、育てています。 「養壺」とかいて、「ヤンフー」(これも中国語読みです)。 つまり、茶壺を育てること。 茶壺を育てるには、まず、飲むこと。 飲めば、自分の5感が育つ。 5感が育てば、品質の良いものと悪いものがわかる。 (良いものを飲むことが前提です) 茶壺(チャフー)を育てるようで、実は自分を育ててもらっている。 そんな風に思うと、より、自分を育ててもらっている「茶壺」(チャフー)に感謝し、愛おしく思えてきます。 ****** http://www.jianoutea.com/chajuchaqi/2013/0115/1066.html 日本國寶 名茶器時間:2013-01-15 10:56來源:未知作者:admin 點擊: 289 次 中國茶壺、日本茶壺和呂宋壺 雖然都是壺,但不是現代漢語辭典的解釋。中國的茶壺放茶葉是用來泡飲的,日本的茶壺則是用來貯茶的。 中國茶壺被列入茶具,始自晚唐的“點茶”。先將茶末置於茶盞內,以湯瓶盛沸水,先只用少許熱水把茶末調開,再向膏狀茶末沖水謂之“點”。 “點”的技巧,強調水流要順暢,水量要適度,落水要準確。玄慧的《喫茶往來》記載,點茶時“左提湯瓶,右曳茶筅,從上位至末座,獻茶次第不雜亂。”曾經和幾個同學去過幾次茶藝館,就被那點茶的動作晃得眼暈,據說日本的茶道的儀式性比我國傳統茶藝惟有過之。 也就是說,現在我們理解的茶壺,基本上是泡茶沖茶的用具。 而日本茶道所謂之茶壺:“廣義上就是放茶的壺的意思,放抹茶的叫茶入,放葉茶的叫茶壺。”事實上茶壺和茶入有時說話用語時也被混同,日本三名壺的“松花茶壺”(可惜這個TK5沒有,三名壺的排位一般前兩位沒有爭議:三日月壺、松島壺,而鬆花壺本來排名要靠後幾位,但畢竟是目前罕見的傳世下來的東西)就常被稱作“松花茶入”——總而言之,中國所說之茶壺是泡茶飲茶的,而日本的茶壺是儲存大量茶葉用的。其實更精確的翻譯應該是“茶罐”。 裝茶葉的茶壺又叫“真壺”。真壺形態一般均為翻唇、短頸、溜肩、鼓腹、平底,肩上多有四系(方便穿根繩子提著走),釉不施到底。因為貯放葉茶,真壺的體形比起貯放抹茶的茶入來要大得多。以貯茶量計,一般說來有1.8公斤、2.4公斤、3公斤幾種規格,乃至有可貯4.2公斤以上的大壺。 (所以說,TK5用忍者偷寶劍偷書,有“藏在茶壺裡”的選項就不是太奇怪了……原先偶不知道,總是想:就這麼個小茶壺藏劍,劍柄都收不住嘛~~)茶壺在茶道盛行後漸漸受到重視。織田信長在上洛之後,今井宗久獻松島壺,足利家世藏的三日月壺也落入其手,可惜本能寺之變毀於大火。 呂宋壺又是怎麼回事呢?太閣裡邊有個比較讓人鬱悶的地方,就是同樣一類東西它分在幾個類別裡:比如備前燒它歸入貿易品,丹波茶壺卻是無限量供應的貴重品,這些也就罷了稍後討論一下,但呂宋壺這麼個東西放在南蠻物裡頭,而一些早期的商人攻略又把在呂宋開發玻璃杯和“呂宋壺”混在一起,就讓人感覺呂宋壺和中國陶瓷日本陶瓷是很不關聯的東西,其實不是這樣; 日本國長期以來陶瓷工藝無法和中國相比,在“太閣的時代”本地的各種“燒”初具規模,但貴族出於習慣以及煊赫身份的必要,仍追逐中國名貴陶瓷作為茶具。然則明中葉之後中日邦交越來越差,戚繼光打倭寇,後來猴子同學還在朝鮮和明軍打過幾個回合,於是大明海禁,日本直接從中國獲得茶具的這個傳統渠道受限極大;於是商人轉而取到呂宋——此時西班牙大帆船已經到達菲律賓,且利用中國對白銀的特殊熱情(眾所周知白銀是中國長期的貨幣,西班牙商人曾經在筆記中感慨中國人鑑定白銀的天份:“就連三歲孩童握住白銀,都能準確分析其成色,並且買賣時根本無需用稱,取絞剪從成塊白銀中截取一截,精確到幾錢幾分分毫不差”——西班牙船用墨西哥白銀大量兌換中國的特產品,呂宋一時成為當時重要的東西方商品集散地,日本商人遂從呂宋搜入大量的“呂宋壺”,實則中國的陶瓷品,儘管在中國國內決不會把這樣大罐子叫作“茶壺”…… 呂宋到日本這條路線利潤豐厚,且能滿足豐臣秀吉這樣的統治者蒐集名器的奢侈欲,此一例同時可以說明太閣中呂宋商貿之地位,以及為什麼產銀的出石和溫泉津海外貿易會如此有利。 (又說一句題外話,同時把銀作為商品,石見銀作為貴重品,這個設定也相當古怪)。 安土桃山時代對茶壺的重視,以信長、秀吉為代表,軼聞極多不一一說了。 《北野大茶湯之記》記錄了當日秀吉用來炫耀的茶壺有四十石、志賀、撫子、舍子、松花等。 ——當然在太閣5裡邊好像你只要有一個九十九發茄子就可以搞千人大茶會,也不計算一下茶葉的“吞吐量”。 然而隨著茶道的“與時俱進”,茶壺因為體形太大,很難在茶席上安排合適的位置,一般家庭也沒有使用如此大的貯茶罐的必要,所以茶壺幾乎被茶人放棄了,轉而成為陶瓷愛好者們用作室內裝飾的大花瓶而已。 真不太敢相信下面的大罐子就是呂宋壺……more http://www.jianoutea.com/chajuchaqi/2013/0115/1066.html |
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