「お茶で仙人になる?」
2008年03月15日
中国茶評論家・工藤佳治
――「仙人」になるための条件とは……
中国の茶館やお茶の関係している施設などに飾られている書で、よく見る詩がある。「一椀喉吻潤 両椀破孤悶 三椀捜枯腸 唯有文字五千巻 四椀発 軽汗 平生不平事尽向毛孔散 五椀肌骨清 六椀通仙霊 七椀喫不得也 唯覚両腋習習清風生」。もちろん縦書きで、書かれている。
一般的に「七椀詩」と呼ばれ、唐代の詩人・廬仝(ろどう・795?~835年)が書いたものである。
訳を要約すると、「一杯目のお茶で、喉や唇の渇きが潤う。二杯目で孤独が消える。三杯目で腸に染み渡り、そこには学んだ知識があるだけ(何の野心 もない)。四杯目で軽く汗をかき、ふだんの不平が毛穴から発散していく。五杯目で皮膚から骨まで清らかになる。六杯目で仙人のようになる。七杯目はもう飲 む必要がないくらいで、両脇に清らかな風が生まれる」。
お茶を飲んだときの身体の反応と感動が、見事に描かれた詩として、古くから評価の高い詩である。
廬仝は、陸羽が『茶経』を著したとされる頃に生まれた。隠遁者としての生活を送り、貧しい中、家族や家人たちとともに生活していたといわれる。詩人としての評価も高い、と言われるが、お茶関係者がそういうのであって、文学的評価は私にはわからない。
ともかくこの詩は、中国のお茶関係者で少し教養のある人なら知らない人はいない、と言ってよいほど有名である。「詩」とはいえ、じつは友人の役人から届いたお茶に対する礼状の一部である。そこからこの部分だけが抜き出され、有名な詩となった。届いたお茶 は、まだ皇帝まで届いていない新茶「陽羨茶」である。陽羨茶は、「紫笋茶」(浙江省湖州)、「蒙頂茶」(四川省雅安)と並んで、唐代三大茶といわれ、現在 の江蘇省宜興一帯で産するお茶である。今は、「陽羨雪芽」として名が残り、生産されている。
その礼状の冒頭からは、そのお茶が「団茶(固められたお茶)」であったこと、当時のお茶のいれ方などもうかがい知ることができる。また、いれたお茶の表面には、今でも共通するおいしいお茶の証し、産毛が浮いていたこともわかる。
ところで、お茶を飲んで、この廬仝のような気分になることができるのであろうか。
「ほっとする」「よい香り」「おいしい」などは、ふつうによいお茶を飲んでいても感じることである。「喉の渇きを癒す」ことは、ふだんやっている。
「軽く汗をかく」ことは、経験できることである。武夷岩茶(福建省武夷山)や木柵鉄観音(台湾・台北)など強く焙煎されたお茶を飲むと、身体は熱くなる。飲み続けると軽く汗をかくことすらある。
そして、今回のテーマ「仙人になる」である。「仙人」そのものがどういうものなのかはわからないが、なんとなくイメージしてみると、過去に何回か近い体験をしたかもしれない。
その数回の体験に共通したことを思い出してみる。
質の高い、おいしいお茶。いれ方も最高。そして周りにいる人も尊敬できる人。そんな中で、飲んだお茶で、まず「お茶酔い」と呼べるお酒とは違う酔 い方をする。少し前まで楽しく話していたが、次第に皆静かにお茶を飲むだけ。言葉はない。でも孤独ではない。同じ空間に、透明のカプセルの中に、あるいは 一緒に雲の上にでもいるような感じである。ただ爽やかで清らかな時間だけが過ぎてゆく。
文字にすると、ちょっと「怪しい世界」のような気もする。わりに現実主義の私だが、この感覚だけは「不思議な感覚」である。
飲んだお茶名は、明かさないのがよいであろう。今はもう手に入らない。作られていない。この感覚を呼び起こす質のお茶は、もう作ることができないのだろうか。「お茶で仙人になれるかもしれない」。
次回は、「そして緑茶に行きつくはずが…」(予定)です。
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